多系統萎縮症を発症して絶望の淵を彷徨った私

 
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写真は我がふるさと、唐津の祭「くんち」


 
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「桑原満弘」昭和20年2月1日生

 
 
はじめに
 
 
本ページは私、桑原満弘の闘病記録です。多系統萎縮症(MSA)とは、小脳や大脳が萎縮することで脳に関連する神経を始め、全ての機能が麻痺するという17指定難病です。世間でよく知られているALS(筋萎縮性側索硬化症)も萎縮症の難病ですが、これは脳から出る神経が萎縮する病態なので多系統萎縮症よりは、やや軽微といえるかもしれません。
私が7~8年で全ての機能が停止して死に至るといわれる多系統萎縮症を発病したのは平成21年でした。それから死の恐怖に怯えながら5年が過ぎ、2年後が不安視される切迫の時期に「食事革命」という活動を主宰する友人と運命の出会いがありました。ワラをも掴む思いで食事を切り替えて5年。そして今日、多系統萎縮症は全快し、リハビリに励みながら仕事に復帰して外国にも出ていこうかというほど、元気いっぱいの生活を送っています。私は、多系統萎縮症との戦いに勝利しました。



 

発病は突然やってきた


 
有機栽培や無農薬栽培の普及を志す私は、地元の佐賀県唐津市を始め、福岡県糸島市や熊本市など、九州を活動範囲として飛び回る毎日を過ごしておりましたが、あれは平成21年4月のことでした。その日までは年齢の割には健康で、軽度の狭心症のほかには風邪もひいたことがないほど元気だった私に、突然と死の病が襲いかかってきたのです。糸島市の農業研修所で新規就農者に農業基本作業を指導中、トラクターから飛び降りた際に足腰に力が入らず、バランスを失って倒れ込んでしまいました。雑草のツルにでも足を取られたのだろうと軽く考えていましたが、起き上がろうとしたところ、脚も腕も思うように反応してくれません。近くに居合わせた研修生数人が駆けつけてきて抱きかかえ、宿舎まで運んでくれたのですが、手を握ってみても足首を動かしてみても感覚がなく頭が朦朧(もうろう)として言葉を喋ろうにも口や舌の感覚がなくて、言葉になりません。布団に横になったのは覚えてますが、そのまま深い眠りに落ちて、気がついたのは明くる朝のことでした。
多系統萎縮症(MSA)_障害者手帳

 

夢も仕事も失うしかなかった


 
しかしすごく元気だった私が、忽然と入院して手術を受け、病院でベッドに括りつけられて点滴や薬漬けとなって、7年も苦しんだ後に死を迎えることへの抵抗がありましたし、この多系統萎縮症(MSA)が原因も治療法も不明だというのも私にとっては、まるで死の宣告を受けるような思いでした。

 当日はいつものように朝から農業指導を始めたのですが、前日の衝撃で身体にダメージを負ったみたいで、節々が痛くて思うような動作が出来ません。その翌日には歩行も困難になりながら、それでも「打ち身のせいだから」と自分に言い聞かせて作業をこなしたのですが、時間が経つにつれて「これは打ち身のせいではないようだ、何か悪い病気ではないだろうか」と、背筋が寒くなるような不安と恐怖が襲ってきていました。唐津市の自宅に帰ってから身体の動きがより困難になりました。他にも、食べ物が気管に入る、舌がもつれて言葉が思うように喋れない、手足が引きつり、歩行困難、不眠といった機能の変化が重なり、約束していた仕事もお断りする不安な日々を送るようになりました。高齢者によくある耳鳴りやめまいは多少有ったものの、数年も風邪一つ引かず、頭髪も30代のように黒々として元気一杯だった私。突然と重病に罹ったなんて信じられない気持ちもあって「何日か休んで積み重なった疲れがとれれば良くなるだろう」と、良い方に思い込むようにしていましたが、体調は逆に、どんどん悪い方向へと向かっているようでした。
家族からは「何の病気か知ることも必要」と急かされて、平成21年の暮れに地元の日赤病院で検査を受けたのですが、結果は「ハンチントン病ではなかろうか」との診断でした。そして担当医から「九州大学病院の権威ある教授先生を頼るように」と、紹介状を書いて頂いたのです。
平成22年が明けるとすぐに、重い脚を引きずるように朝早くから車を走らせて、九大病院に向かいました。午後5時30分までおよそ9時間も掛けて検査を受けたところ、結果はオリーブ橋小脳萎縮症(多系統萎縮症17指定難病)だと診断され、入院手術の手続きを取るようにと言われ、手術同意書のサインを求められました。



 

死に場所を探していた私


 
他にも生きる道は有るはず、いや必ず有ると自分自身に叱咤激励し、教授には「思う所あります」と入院手続きのサインを断り、九大病院を抜け出しました。帰路、久しぶりの運転だからか、いや、病に恐れおののいてか、足がブルブル震えてアクセルやブレーキを踏もうとしても、感覚が足先まで伝わらないことに気づきました。暗い夜道、死の予感と直面して様々な恐怖が頭を過ぎり、いっそのこと車ごと突っ込んで死んでやろうか、その方が早く楽になれると思ったりもしていました。

翌日、九大病院を紹介してくれた地元病院の先生に多系統萎縮症(MSA)だと伝えて今後のことを相談したところ、自宅療養でもよいと思うと言われました。残りの年月を入院して検査と手術を繰り返しながら過ごすよりも、自宅でゆったりと過ごす方が楽しみもあるだろう、との判断だったようです。それからというもの、人生で始めて、何の手立てもない寝たきりの生活が始まりました。障害者手帳1種3級を交付してもらいましたが、それよりも平成29年に迫り来る死期が頭の大部分を占めて夜の眠りさえも怖ろしくなっていました。眠らぬ夜を過ごして明け方になると、このままではダメ人間になってしまうと思い立って硬直した脚に手を添えて、折り曲げるようにしてベッドから起き上がり、下半身を引きずりながら車に乗って宛もなく車を走らせることが重なりました。今にして思ってみると、楽に死ねる場所を求めて彷徨っていたのかもしれません。