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冬虫夏草の歴史で最初に登場したのが始皇帝

冬虫夏草の画像_始皇帝歴史
 
司馬遷がまとめた始皇帝録(歴史書)・史記118巻・淮南衝山列伝によると、子供の頃から身体が弱かった始皇帝が権力を握るにつれて不老不死を強く願うようになったとあり、斉国の方士・徐福に命じて冬虫夏草が国内で収穫できる施設を作ろうとしていた様子が記されています。徐福は若い男女3000人と財宝を積んで探索の航海に出たのですが、いくら待っても帰ってきません。始皇帝は秦国最東端の天尽頭と呼ばれる岬の突端に、徐福の航海の無事を祈る廟を建てて帰還を首を長くして待ちました。しかし徐福は帰らず、失意の始皇帝は西安の都に引き揚げる途中で49才の短い命を終えたのでした。 
 
歴史的に黄帝の時代から800年ほど進むと、時は秦王朝に移ります。衰退した周王朝を倒したのは咸陽の豪族の子で、名を政(ジェン)といいます。父親の死去に伴い13歳の若さで秦王に即位(紀元前246年)して秦の「始皇帝」と称され、存命わずか15年の間に強大な国家を建設しました。北方からの匈奴(夏王朝の残党)の侵略に備えて万里の長城を築いたり、西安に壮大な兵馬俑を残したりと、偉大な足跡を残しました。日本でも政さんが行った国家統治の方式を政治といっているように、多大な影響を与えています。その始皇帝について、司馬遷がまとめた史記118巻・淮南衝山列伝には、次のようなことが記録されていました。強靱そうに思われる始皇帝ですが、実際には子供の頃からとても体が弱かったようです。したがって権力を握るにつれて、不老不死を強く願うようになりました。

そんなある日、部下に「仙草を収穫してどんどん持ってこい」と命じたのです。国中の仙人(方士)や道士が集められましたが、仙草といえば前人未踏の霊峰にしか見られない希少なものですから、皆んな尻込みをする中でただ一人、斉国(山東省)の方士・徐福(中国では徐市)だけが申し出たのです。
「東方海に三神山あり、ここ蓬莱(ほうらい)なる地の仙人が不老不死の薬を練っていると聞きました」と奏上したのです。始皇帝はたいそうよろこんで、徐福が望むとおり金銀100貫と3000人の若い男女、採取施設を建設するための石工や大工などを用意して浙江省の寧波港より、蓬莱を目指して旅立たせたのです。しかしその後、徐福を含め誰一人として秦には帰ってきませんでした。

ここまでは当時編纂された歴史書である「史記」に記されていますが、それ以降は徐福に関する記録がありません。各地に残された伝説からみると、朝鮮半島に到着して現地の薬草である岩間蘭を見つけたり、白頭山(中国名は長白山)に行ってその地の薬草に不老草の命名をしたという説、台湾に到着して山岳民族となった説、日本に来て神武天皇になった説など、様々な推察がされていますが、真実は知るよしもありません。
 歴史上の諸説を検証してみると、日本説よりも朝鮮半島説や台湾説のほうに正当性があるような気がします。この根拠の一つが道教の伝来です。日本への道教の伝来は、日本書紀によると西暦513年、継体天皇の年に百済(朝鮮)からもたらされたようで、それ以前には、すなわち徐福が蓬莱に渡ったとされる紀元前200年代には道教(方仙道)の記録も史跡もありません。
 中国では、神武天皇になったとする説が多いようですが、徐福が権力をにぎって天皇制を始めたのなら、当然のように方仙道が国民宗教になってもよいはずですが、その当時から方仙道の痕跡も薬膳の名残もないのですから、一時的に立ち寄ったかもしれませんが、この説は否定せざるを得ないようです。
 方仙道の布教の度合いを調べてみると、台湾が群を抜いています。しかも、戦乱の世で烏合参集を繰り返した方仙道ですが、その中で徐福が参加していた宗派である神仙道という名称のままで、現在までしっかりと根付いています。
 そしてもう一つが、冬虫夏草を含む薬膳という食文化の存在でしょう。日本の古代には薬膳の食文化がありませんが、韓国ではNHKで放映された韓流ドラマ・チャングムの誓い(後述)でみるように皇族の間には薬膳と冬虫夏草の貴重性が受け継がれており、台湾でも薬膳が民衆の食の中心をなし、その上に、世界で最も冬虫夏草を消費する国としても有名です。
 三つ目は、地形です。徐福の言う「東方海の三神山」とは、おそらくは海から観た景観のことでしょう。台湾では中国側の海から4000メートル近い玉山、雪山、合歓山という三大秀峰を仰ぎみることができますが、朝鮮半島や日本では海から見えるという三山はありません。
こういった訳で台湾説が第一候補になるのですが、これが真実であれば徐福たち一行は、台湾の高山に住み着いて外部との交流(特に漢化)の一切を避けて暮らしたに違いありません。そして山岳民族となって、独自の文化を築いたのかもしれません。



 
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