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冬虫夏草の成分
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冬虫夏草の歴史で最初に登場したのが秦の始皇帝

生まれつき病弱だった始皇帝 

秦の始皇帝01

秦の始皇帝が建設した世界最大の建造物

前漢時代(紀元前206~8年)に編纂された史記を参考にして冬虫夏草のルーツを探ってみた。
史記は司馬遷によってまとめられた中国最古の歴史書として名高い。漢民族初代の皇帝・黄帝(紀元前2500年代)から前漢の武帝に至までの31人の皇帝王侯に関する歴史に残る所業が記述されているが、その中に登場するのが秦王朝を建国した始皇帝である。司馬遷がまとめた史記118巻・淮南衝山列伝には、始皇帝について次のような記述が残されている。


衰退した周王朝を倒したのは、咸陽の豪族で政(ジェン)という若者である。13歳で秦王朝を打ち立て初代皇帝に即位(紀元前246年)して「始皇帝」と称され、強大な国家を建設した。漢民族初となる中央集権国家を目指して思想統制を図り、貨幣・文字・度量衡を統一するなどして国家を政治的に管轄した。外にも、北方から侵略してくる匈奴に備えて万里の長城を築いたり、都・西安には西方民族の奇襲を防ぐために壮大な兵馬俑を備える。

 


 

始皇帝は徐福に冬虫夏草の探索を命じた 

始皇帝
台湾の各地で神仙道(道教)が信仰される
強靱そうに思われる始皇帝だが、実際には幼少期の頃からとても体が弱かったようで、権力を握るにつれて不老不死を強く願うようになり、方仙道(後の道教)の仙人として高名な徐福に「毎日のように冬虫夏草を食したい」と頼んだ件は、史記の中でも余りにも有名である。

国家を統一し強大な権力を手にした始皇帝は、宿願だった不老不死を手に入れようとして、宮中の司祭に「仙草を収穫してどんどん持ってこい」と、命じたのである。高名な仙人(方士)や道士が宮殿に集められたが、仙草といえば「天国に茂る薬草」ともいわれ、前人未踏の霊峰にしか見られない希少な薬草である。誰しも尻込みをする中でただ一人、斉国(現在の山東省)の方士が恐る恐る立ち上がった。徐福(中国名は徐市)と名乗るこの男は「東方海に三神山あり、ここ蓬莱(ほうらい)なる地の仙人が、不老不死の丸薬を練っていると聞きました」と奏上したのである。
始皇帝はたいそう喜び、徐福が望むとおりに金銀100貫目と3000人の若い男女、冬虫夏草の採取施設を建設するための石工や大工を用意したのである。



 
 
 
しかし徐福は帰ってこなかった
秦の始皇帝02
台湾の各地で神仙道(道教)が信仰される
徐福たち一行は大船団を組んで浙江省の寧波港より、蓬莱の地を目指して旅立ったのだが、寄港する日が近づいてもなかなか帰ってこなかった。始皇帝は航海の無事を願って、中国最東端で東シナ海を望む岬に廟を建て「我が命尽きるまでに帰ってきてくれ」と海神に祈りを奉げたという。
しかし徐福は帰ってこず、失意の始皇帝は西安の都に引き揚げる途中で49才の短い命を終えたのである。ここまでは当時編纂された歴史正書である史記に記されているが、それ以降も徐福に関する記録は何一つ残されていない。
各地に残された故事伝説を調べると、朝鮮半島で現地の薬草である岩間蘭を見つけたり、白頭山(中国名は長白山)で薬草に「不老草」という命名をしたという説、日本に来て神武天皇になった説など様々な推察がなされているが、もっとも信憑性があるのが次に述べる「台湾に到着して山岳民族となった」という説である。



 

道教と冬虫夏草が普及する台湾 

蓮池潭の道教神
台湾の各地で神仙道(道教)が信仰される
歴史に残された諸説を検証してみると、日本説や朝鮮半島説よりも台湾説に正当性があるような気がする。この根拠が道教の伝来。日本への道教の伝来は、日本書紀によると西暦513年、継体天皇の年に百済(朝鮮)からもたらされたようで、それ以前には、すなわち、徐福が蓬莱に渡り生存していたとされる紀元前200年代には道教の記録も史跡も見当たらない。
また漢民族の間では、神武天皇になったとする説が多いようだが、方仙道(後に道教)の方士だった徐福が権力をにぎって天皇制を始めたのなら、当然のように、方仙道(道教)が国民宗教になってもよいはずである。ところがその当時から方仙道の痕跡も薬膳の名残もないのだから、この説も否定せざるを得ない。
方仙道の布教の度合いから日本、朝鮮半島、台湾を調べてみると、台湾が群を抜く。しかも、戦乱の世で烏合参集を繰り返した方仙道が、その中で、徐福が参加していた宗派である神仙道という名称のまま台湾に根付いており、現在も台湾各地で宗教遺跡や行事が盛んで、多くの国民が信仰している。
徐福は道教の修験者、いわば仙人だけあって、薬膳に深い知識を持つ。この薬膳も台湾では日常にように嗜好されており、台北市迪化街は漢方薬問屋が軒を並べる世界に名だたる薬膳の街であり、ここにも徐福の功績が感じられる。


 

徐福が台湾に定着した可能性 

台湾の山岳民族
中国の春節と同様に山岳民族が祝う豊年祭
徐福が台湾で定着したという根拠の一つが、冬虫夏草を含む薬膳という食文化の存在である。日本の古代には薬膳の食文化が根付いていないが、韓国ではNHKで放映された韓流ドラマ・チャングムの誓いでみるように王族の間にのみ、薬膳と冬虫夏草の貴重性が受け継がれていた。これに比べて台湾では、薬膳が民衆の食の中心をなし、その上に、世界で最も冬虫夏草を消費する民族としても有名である。

ニつ目は、地形にある。徐福が秦の始皇帝に奏上した東方海の三神山とは、おそらくは、海から観た景観のことであろう。台湾では太平洋側の海から4000メートル近い玉山、雪山、合歓山という三大秀峰を仰ぎみることができるが、朝鮮半島や日本では海から仰ぎ見る三山は存在しない。

こういった訳で、徐福が秦の始皇帝の命に背いて定住した地は台湾説がもっとも有力になるのだが、これが真実であれば、徐福たち一行は、台湾の山岳地帯の谷あいに住み着いて、外部との交流(特に漢化)の一切を避けて暮らしていたに違いない。そして山岳民族と呼ばれながら、独自の文化を築いたのかもしれない。



 



 
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冬虫夏草の歴史
 
 
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