私の闘病記です。全国20000人の多系統萎縮症で苦しむ方々にお伝えしたく、公開しました。
闘病記トップ

「桑原満弘」昭和20年2月1日生  

はじめに
本ページは、私の7年に及ぶ闘病記録です。多系統萎縮症(MSA)とは、小脳や大脳が萎縮することで脳に関連する神経を始め、全ての機能が停止するという指定難病です。世間でよく知られているALS(筋萎縮性側索硬化症)は同じく萎縮症の難病ですが、これは脳から出る神経が萎縮する病態なので、死に直面するといった恐怖がありません。ところが、私が発病した萎縮症は発病から7~8年で全ての機能が停止して死に至るという怖ろしい病気です。
平成21年、突然と身体が動かなくなって大学病院へ、そして権威の先生の診察を受けて「余命7年」を宣告され、死の恐怖におののきながら5年を過ごし、余命2年にして「食事革命」を提唱している旧友に会いました。藁をもすがる思いで、日本自然療法協会理事長を務める友人の指導のとおり根本的に食事を見直し、そして2年足らず、私は完璧に健康を取り戻しました。

1.発病
身体障害者手帳
余命7年を宣告されて

有機栽培、ならびに無農薬栽培の普及を志す私は、地元の唐津市をはじめ、福岡県糸島市や熊本市など、九州を活動範囲として飛び回る毎日を過ごしておりました。
あれは、平成21年4月のことでした。その日までは健康すぎるくらい健康で、何の病気も心配してなかった私に、突然と死の病が襲いかかってきたのです。
糸島市の農業研修所にて新規就農者の農業基本作業の指導中、トラクターから圃場に飛び降りた際に、足腰に力が入らず安定を欠いて土の上に倒れ込んでしまいました。雑草のつるにでも足を取られたのだろうと軽く考えていましたが、起き上がろうとしたところ、脚も腕も身体も思うように反応してくれません。近くに居合わせた研修生数人が駆けつけてきて抱きかかえ、宿舎まで運んでくれたのですが、手を握ってみても足首を動かしてみても感覚がなく頭が朦朧(もうろう)として言葉を喋ろうにも口や舌の感覚がなくて言葉になりません。布団に横になったのは覚えてますが、そのまま深い眠りに落ちて、気がついたのは明くる朝のことでした。

その日はいつものように朝から農業指導を始めたのですが、前日の衝撃で身体にダメージを負ったようで、節々が痛くて思ったような動作が出来ません。その翌日になると歩行も困難になり、それでも「打ち身のせいだから」と自分に言い聞かせながら作業をこなして居ました。
時間が経つにつれて「これは打ち身のせいではないようだ、何か悪い病気ではないだろうか・・・」と、背筋が寒くなるような不安と恐怖が襲ってきたのでした。
唐津市の自宅に帰ってからも、身体の動きがより困難になりました。食事が気管の方に入る、舌がもつれて言葉が思うように喋れない、手足の引きつり、無意識に脚が蹴り上げる、歩行困難、不眠といった機能の変化が顕著になり、約束していた仕事が出来ないのではなかろうかといった不安な日々を送るようになりました。数十年も風邪一つ引かず、頭髪も30代のように黒々として元気一杯だった私。突然と重病に罹ったなんて信じられない気持ちもあって「何日か休んで積み重なった疲れがとれれば良くなるだろう」と、良い方に思い込むようにしていましたが、体調は逆にどんどん悪い方向へと向かっているようでした。

家族からは「何の病気か知ることも必要」と急かされて、平成21年の暮れに地元の日赤病院で検査を受けました。結果は、ハンチントン病ではなかろうかとのことでした。担当医から「九州大学病院の権威ある教授先生を頼るように」と、紹介状を書いて頂いたのです。
平成22年、年が明けるとすぐに、重い腰を引きずるように朝早くから車を走らせて、九大病院に向かいました。午後5時30分までおよそ9時間も掛けて検査を受けたところ、結果はオリーブ橋小脳萎縮症(17指定難病)ということで余命7年と診断され、即入院手術の手続きを取るようにと言われ、手術同意書のサインを求められました。
しかしすごく元気だった私が、忽然と入院して手術を受け、ベッドに括りつけられて点滴や薬漬けとなって意識がなくなり、その状態で7年も生き存えた後に死を迎えることへの抵抗がありました。加えてこの病気は、発病の原因も治療法も不明というのですから私にとっては即、死の宣告を受け入れるようなものなのです。
他にも生きる道は有るはず、いや、必ず有る、と自分自身に叱咤激励し、教授には「思う所あり」と申してサインを断り、九大病院を抜け出しました。
帰路、久しぶりの運転だからでしょうか、足がビクビクと踊ってアクセルやブレーキを踏もうとしても、感覚が足先まで伝わらないことに気づきました。
「危ない」暗い夜道、死の予感と直面して様々な恐怖が頭を過ぎりました。いっそのこと、このまま車ごと突っ込んで死んでやろうか、その方が早く楽になれると思ったりもしていました。
その翌日、九大病院を紹介してくれた地元の病院担当医に検査結果を伝えて、今後のことを相談したところ「自宅療養でもよいと思う」と言われました。余命宣告されたのだから入院して検査と手術を繰り返しながら7年を過ごすより、自宅で余生を過ごす方が楽しみもあるだろう、との判断なのでしょう。

それからというもの、人生で始めて、何の手立てもない寝たきりの生活が始まりました。障害者手帳1種3級を交付してもらいましたが、それよりも平成29年に迫り来る死期が頭の大部分を占めて夜の眠りさえも怖ろしくなっていました。
いつかは意識がなくなるだろうと考えながら眠らぬ夜を過ごして、明け方になるとこのままではダメ人間になってしまうと思い立って、硬直した脚に手を添えて折り曲げるようにしてベッドから起き上がり、下半身を引きずりながら車に乗って、宛もなく車を走らせることが何度もありました。今になって思ってみると、楽に死ねる場所を求めて彷徨っていたような気がします。

 
矢印01 1 2 3 矢印2